本日の思いつき
今日の仕事帰り。
自転車をこいでいると、ふと思いつきました。
それは、「教育」と「洗脳」の違いについて。
これに関して、7,8年前くらいからハッキリせず、疑問に思っていましたが、今日自分なりにですが思いつきました。
「教育」は、自分で考えさせること(考える材料を与えること)
「洗脳」は、自分で考えさせないこと(考える材料を奪うこと)
という思いつきがしっくりきました。
あくまで個人的にしっくりきた、ただの思いつきなので、適切か不適切かは置いときます。
前者は、ある方向性を示した上で、その方向の是非も含めて判断させることが目的。
後者は、ある方向に恣意的に向かわせることが目的。
といった感じかな?
まだまだ考える余地がありますが、思いつきを忘れないためのメモがわりとして投稿してみました。
トレーニングと練習について
ボクシング(に限らずですが)をするにあたって、「トレーニング」と「練習」を分けて考える必要があると思います。
何を分けて考えるのかというと、「目的」です。
(完全に分けられるものでもないですが)「トレーニング」は、筋力や持久力などの「体力」を向上させる目的で、「練習」は、体重をのせたパンチの打ち方やパンチの避け方などの「技術」を上達させる目的で行っていくものと考えています。
そのように考えた場合、例えばシャドーボクシングを行う時に「どのように体重移動して打つか」に注意を向けて実施していると「体重をのせたパンチを打つ練習」になりますし、「手数を出し続けること」に注意を向けて実施していると「手を出し続ける持久力のトレーニング」になると思います。
ただ、ここで気をつけたいのが、どういう方法で練習やトレーニングに取り組むかを考える必要があります。
例えば上記の例で、持久力を向上させる為にシャドーボクシングを取り入れたとします。
しかし、ボクシング初心者がパンチの打ち方が良くない状態でシャドーボクシングを持久力のトレーニング法として取り入れてしまうと、良くない打ち方のパンチを数多く繰り返すことになります。
そうすると、良くないパンチを出し続ける持久力はつきますが、良くないパンチの打ち方が身についてしまう可能性があります。(良くないパンチを打つ練習をしてしまっている)
そういった場合、持久力を向上させるためには、ロードワークや縄跳びなど他の方法を選択した方が良いかもしれません。
けど、ロードワークや縄跳びで培った持久力が、ボクシングにそのまま反映されるかというと、そうでもありません。
マラソン選手がボクシングのスパーリングを行った時に長いラウンドを戦えるかというと、1ラウンドで息があがって動けなくなったりすることがあります。
それは、スパーリングにおいての疲れやすさ、疲れにくさは、心肺機能や筋持久力だけではなく、パンチを打つ時の力加減、パンチを打たれる事に対する慣れ、パンチへの恐怖心、ペース配分など、様々な要因があるからです。
逆にボクサーとして持久力があるからといって、マラソン選手に勝てるわけでもないということになります。
そこにも、走るフォームやペース配分、駆け引きなども影響してくるからです。
「じゃあ、ボクサーは実践に近いスパーリングだけするのが一番良いんじゃないか?」といった疑問が出るのかもしれませんが、それもそうとは言えません。
先程あげたパンチの打ち方も全く出来ていない初心者が、スパーリングをする中で打ち方や避け方を学ぶのは、かなりハードルが高いと思います。
例えば、「左ジャブをこうやって打つ」と教わったとして、シャドーボクシングのように誰にも殴られない、自分のペースで出来る状況で行うのと、スパーリングのように相手が殴ってくる、動き回らないといけない中で行うのでは、前者の方が行いやすいと思います。
何もない状況で打てないものが、難しい状況で打てるのかというと難しいケースが多いと思います。
しかし、最終的には実戦の中で左ジャブを打てないといけないので、そこに至るまでに、どのように練習やトレーニングを進めていくのかを計画立てていく必要があります。
このように目的に応じて、練習とトレーニングを分けて考える必要があり、さらにその方法もその時期の課題に応じて決めていく必要があります。
今回は、初心者を例にあげましたが、上級者であればまた異なると思いますし、もちろん試合が決まっているのか、決まっていないかや、試合間近と決まりたてでもやるべきことの比重や優先度は変わってくると思います。
現在の自分の状態、状況に応じて、目的と課題を明確にし、優先順位をつけて練習やトレーニングに取り組んでいくことが大切だと思います。
勉強しないといけない?
「勉強って何の為にするん?」
「勉強って必要なん?」
「勉強して何になるん?」
「何で勉強しろって言われなアカンの?」
といった疑問をお持ちの方もいるようです。
かく言う僕も、高校1年の時に
「あれ?何の為に勉強してるんやろう?」
「こんなん社会に出て何か役立つんかな?」
「使わんことがほとんどなんちゃうん?」
「大学に行く為に勉強して、何をやるか分からん大学に入って、また興味ないことを勉強して、勉強したことと関係ない仕事について一生を終えるん?」
なんてことを、考えてたことがあります。
(大学という所についてもよく分かっていなかった)
その結果、「自分は何をしたいのか?」を考えて、偶然ボクシングに出会って始めましたが、一生は続けられないと思ったので「引退後の仕事をどうしようか?」を考えて、自分が興味のあることについて考えた結果、トレーナーになる為の専門学校に行き、トレーナーとして働き、その後、理学療法の専門学校に行き、今は理学療法士として働いています。
この過程は結果的に、自分がその時にやりたいと思ったことを、自分で選択して(環境の影響もありますが)、やりたいようにやってこれたと思っています。(中身の質は置いといて…)
ということで、結果的に勉強はしてきたようですが、「やりたいこと」というのが、僕にとっては重要なキーワードであったように思います。
さて前置きが長くなりましたが、タイトルに戻って、「勉強しないといけない?」について。
結論から言うと、「しないといけない」というよりは、「しておいた方が良いこと多いんちゃう」と思っています。
「勉強」という言葉を使うと、拒否反応を示す方もいらっしゃるかもしれないですが、要は「何かについての知識を蓄えること」と捉えると、しておいた方が良い感じがしないでしょうか?(笑)
何かについて知識を蓄えようとする時って、どんな時でしょう?
例えば、「何かに興味や関心がある時」は、そのことについての知識を得ようとしているのではないでしょうか?
例えば僕の場合、ボクシングを始めた時に色々な選手の(当時は)ビデオを集めたり、本を買ったりして、色々調べたりしましたが、そういう行為も勉強になると思います。
また、「しないといけないことがあるけど、やり方が分からない時」も、そのことについての知識を得ようとすると思います。
仕事や何かの手続きなどが、そういった場面になるのかもしれません。
これらは、目的がハッキリしていて、それを達成するための勉強ですね。
また、「知識を蓄えていく中で気づくことが出来る」という視点もあります。
やりたいこと、やるべきことが明確であれば、何を勉強するかがある程度わかりやすいですが、よく分からない場合は、色々やっていく中で見つかることもあると思います。
小、中、高校の時の勉強等は、これに当てはまるケースが多いのかもしれません。
知らないと見えないこともあるということですね。
目的が明確であれ、不明確であれ、「勉強する過程で向上する能力」もあると思います。
興味があるなしに関わらず、大抵の勉強の過程で文章を読み書きする、人の話を聞く、人に伝える、計算する、わからないことについて考えるなどの行為を行うと思います。
そういう経験に慣れている人は、学び方の勉強ができているかもしれませんが、勉強から目を背ける頻度が高かった人は、そういった能力は養われにくいのかもしれません。
そうすると、後々勉強する必要が出たときに効率良く行いにくくなってしまう可能性もありますね。
まあ何にせよ、個人的に知識はあるに越したことないと思うので、勉強できる時にしておく方が良いと思います。
ただ、何についてどれくらい時間をかけて勉強していくのか、優先順位を決めて上手く行えていくと良いなと思います。(これが難しい)
全部は難しいかもしれませんが、なるべく興味、関心を持って取り組めると良いですね。
格闘家批判
最近、SNSで格闘家の方に対する批判的な書き込みをみかけました。
「~してる暇があったら練習しろ」とか、「格闘技をなめるな」みたいなことが書かれていました。
最近は、あまり見かけることも少なくなりましたが、野球でも野次というものがありましたね。
どういう立場で、どういうつもりで発言しているのかはわかりませんが、飲み屋でおじさん達同士で個人の感想を話し合っているのと、SNSの格闘家の個人ページに書き込むのでは意味合いが違うと思います。
また、「~してるのが、格闘家として正しい(間違ってる)」や「~選手はこうあって欲しい(欲しくない)」みたいな価値観を持っている一個人が、そうじゃない格闘家を批判しているのかなと思います。
けど、その格闘家が普段何をしているのか、どう考えているのかを知らずに批判していることが多いのかもしれません。
批判の目的も、応援したい気持ちから、悪口を言いたいだけ、目立ちたい等々、色々あるのかもしれません。
仮に選手が負けたとして、「~なんかしてるから負けたんだ」なんて言い始める人もいるのかもしれません。(たくさんの時間の中の一部だけ見て、そんなことはわかりませんよね)
「選手 ー 客」の正しい関係がどういうものかはわかりませんが、有名であろうが無名であろうが、一個人の人生についてネガティブな影響しかなさそうな口出しは出来るだけ避けたいですね。
例えば、営業の仕事をしてる人が夏に海に行って、「海になんか行ってるから契約がとれないんだ」とか、学校の先生が休みの日にゲームセンターに遊びに行って、「ゲームセンターに行ってるなんて教師の仕事をなめてる」とは、ならないんじゃないかと思います。
仮にそういう価値観だったとしても、「個人の思いや感想を言う場」と「相手に必要と思われる指摘をする場」を考える必要はあるかもしれませんね。
誰に、何を、いつ、どこで、言うべきか、言わないべきかを考えることは、色々な場面で大切なことだと思います。
僕も気をつけたいと思います。
コロナで思うこと
今年はコロナウイルスの影響で従来とは異なる生活を強いられ、色々とストレスもあるかと思いますが、いかがお過ごしでしょうか?
コロナウイルスの流行に伴い、様々な考え方や意見を目の当たりにする機会が増えました。
SNSがない時代と比べて様々な情報が入ってくる為、本当に多様な考え方に触れる機会や、人の行動の特徴について考える機会が多くなり、勉強になるなと思います。
主には、コロナに対する捉え方、感染対策の情報の正誤、外出の是非、感染者に対する接し方、諸外国や日本政府への思いなど、様々な特徴がみられます。
正体や対策がよくわからず不確かなもの、かつ、自分に不利益を被るものに関して、どのような行動をとる傾向があるのか?といったところでしょうか。
こういう時には、自分はなぜそう思うのか、自分はなぜその情報を正しいと思うのか等を考えるようにすると、自分の特徴に気づけるというか、自分を振り返るきっかけになると思います。
不確かで重要なことだからこそ、より事実と個人の意見や感想とを分けて考えないと、情報に踊らされ誤った行動をとってしまうかもしれません。(厳密には、誤っているかどうかも分からないケースもある)
情報提供者が、専門家、芸能人、家族、友達、友達の知り合い、政治家なのかでも信憑性は変わってきますし、情報伝達媒体が、論文、新聞(社)、テレビ(局)、ラジオ、週刊誌などでも意図するものが変わってくる可能性があります。
例えばですけど、感染症の知識がなく学問に疎いけど、あなたの好きな芸能人がテレビで感情的に発した意見と、コロナに関する世界中の専門家から様々な情報を得ている感染症の専門家が論文で発表した内容では、個人的には後者の方が信頼性が高いと思います。
あとは、何の話をしているのも重要で、芸能人が芸能界の話をしているのと、感染症の専門家が芸能界の話をしているのでも、視点が異なるというか、捉え方や信頼性が変わってくると思います。
けど、最終的に様々な情報を元に意思決定するのは自分自身だと思うので、なるべく他者に被害を広げず自身が納得できる行動をとるのが大切だと思います。
不確実性の高い状況で、誰もが被害者になりうる状況だと思うので、仕方ないこともある中で、気をつけれる範囲で気をつけて、自分の身を守り、変に他者を攻撃しないようになればなと思います。
早く収まってほしいですね。
はじめに
何回このブログをやり直してるのかわかりませんが、懲りずにまたまた再開しました。
気が向いたら適当に更新していこうと思います。
確かな情報じゃなく、個人的に思うことや、感じたこと、考え方などを書いていこうと思います。
文章の最後には、「知らんけど」と書いてあると思って、読んでもらえたらと思います。
なので、あんまり真に受けずに、あくまで参考程度に見ていただければと思います。
過去のブログは以下から。
元ボクサーのトレーナー日記
http://blog.livedoor.jp/boxer_kf/
(新)元ボクサーのトレーナー日記
もう10年くらい経つのかと思うと、恐ろしくなりますね。
ということで、よろしくお願いしますm(_ _)m